松島新地
松島新地
松島新地でエッチしたい。
成立
明治に入り大阪は開市場から開港場へと変化した。それに伴い安治川上流の川口に外国人居留区である川口居留地が明治元年(1867)に設立され、近代港として発展を遂げたした。(その後、川口居留地は、水深の浅い機能的な不備があった安治川周辺から神戸に移り、明治32年(1899)でその役目を終えた。その川口居留区跡は、現代の西区警察署の近くにあたり、記念碑が残っている。)
明治元年(1868)7月15日、建て前上外国人居留者による性犯罪の予防を主眼とした対外国政策、新地開発、一向に減らない散娼の整理を目的として遊郭の設置が提案され、同年12月15日に設置の許可が下り、木津川と旧尻無川に挟まれた九条村町を筆頭に約四村をを合わせ、松島町(松島の由来は松ヶ鼻と寺島の地名を合せたものである)として新しい遊郭地の設立が始まった。
松島遊廓設立当初の問題は、いかに散娼、私娼、その他の遊所を取りこみ移転させる事であった。
明治元年12月24日、大阪市内の各遊所に移住を勧誘、しかし容易に応じる者は少なかった。
明治2年8月、私娼整理の為、新規加入を許す。
明治4年3月24日、大阪府から各遊所にある通達が届けられた。それは他遊所での増店増員を禁止し、収入の20分の1の税を課すが、松島のみは例外としてそれらが除外されるというものであった。
同年10月25日、更に他遊郭に対し移転を命令し、松島遊廓への移転か、それとも改業かを各業者に迫った。
明治5年、娼妓解放令が発布。その為、手痛い打撃を被った松島遊廓は、四ヶ所に設けていた大門をとり払い、その材料を売り払った。その後、曽根崎新地、新町遊廓から名のある娼家が、大楼を建設していくと共に廃止された遊所の業者達も移転し、区域も拡張、整理され改めて町名を定めた。
その結果、松島遊廓は、当時大阪各地に点在する公娼区、私娼区の吸収し次第に大遊廓となったのであった。
当時の状況
大正10年(1921)には楼閣275軒、芸者約4000人がそこで従事しており、当初存在していた『松島遊廓』の大文字を掲げた大門をくぐると、大通り道幅6間半(約12メートル)、中央帯を通り奥に行くのに延長約200間(約360メートル)と大きさであった記録に残っている。
また明治25年頃、安治川の源兵衛渡しと松島の地を一直線につなぐ九条新道が開通。(その後アーケード街に変化)
また明治36年(1903)、花園橋から築港まで全国初の市電約5キロが開通した。(昭和44年(1969年)全面廃止)花園橋は今の九条新道の交差点周辺にあたり、「大阪市電創業の地の石碑」が残っている。
市電にまつわる話で面白い物がある。第二期工事では、松島新地の貫通する形で市電が通過する予定であったが、商売の邪魔になるという新地からの強い反対で新地の手前で90度に曲っている。当時の松島の勢いを示すエピソードであろう。
川口居留区に近かったことや交通の便の良さや重なり、戦前には、芝居小屋や映画館、寄席などが並び立っていった。九条新道の商店も当初から商品を安く提供するという方針により「九条新道は西の心斎橋」といわれるほど発展した。その九条新道に隣接する松島遊廓は、その恩恵を存分に受け、遊廓史上類を見ない屈指の大遊廓となった。
スキャンダルと災害
すべてが順風満帆に見えた松島遊廓に移転の話が持ち上がった。
明治30年(1897)、松島遊廓の周りも新田開発が進み、もう僻地とは言えず、市の中央と化していた。そこで市の体裁も悪い為、築港側に移転してはどうかとの意見により調査が開始された。しかし、この時の調査は立ち消えとなった。が、移転案自体、遊廓整理という観点から見ると以前から繰り返された都市政策の一部であり、花街は土地発展を助長すると言う考え方が底流に存在する。この種の問題は政治的色彩が濃厚で、裏面に利権問題が暗躍する為、当局はとかくこれを敬遠し、立ち消えになる事が多い。だが大正期に再び起こった松島遊廓移転の話は、従来のように噂だけで立ち消えにならず、後に政界をも揺るがす発端になろうとは誰も予想する事は出来なかったであろう。
大正15年(1926)2月28日、松島遊廓移転を巡り疑獄事件発覚。
同年7月6日、若槻礼次郎内閣下の江木法相が、松島遊郭事件において閣僚にも予審が及ぶ情勢だと判断し、閣議に了解を求める。
同年7月7日、大阪地裁が政友党総裁床次氏を松島事件で予審尋問。
同年11月7日、大阪地裁が若槻首相に予審尋問。
昭和元年(1926)12月30日、大阪地裁が松島遊郭事件の予審を終了する。起訴6人。
昭和2年1月15日、大阪地裁、松島事件で若槻首相、床次総裁ら不起訴に。
同年4月17日、倒閣を図る枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案を否決し、若槻内閣総辞職。
同年7月11日、松島遊郭事件の初公判。傍聴席は満席で前年に発覚した汚職事件として世間の関心の高さを見せたが、結審後の有罪は2名のみ。
結局この事件が直接若槻内閣総辞職に関わっていた訳ではないが、一連の記事を見ると世間の関心の高さがよく分かる。
この事件は不動産業者が代議士に賄賂を贈っていたことが発端であった。しかしある著名人が『江戸時代から日本で賄賂が必要悪だと認められていた』と述べたように古来から汚職というのは存在していた。それが大正、昭和と時代が変わると共に汚職事件が花盛りとなり、現代の汚職事件の原形が全て出揃った時代の中の遊郭を舞台にした一つの大きな事件であったと見ることが出来るであろう。
そんな事件があったからだろうか、ほんの些細な事件でも松島新地は注目されるようになったようだ。
昭和6年(1931)10月15日、松島遊郭の娼妓13人が待遇改善を要求してハンストを決行。無産夫人同盟が経営者との交渉を斡旋し、10月20日に娼妓に有利な条件で解決した。
あの疑獄事件の関心の高さから、こんな事件も世間は注目したのであった。
松島遊廓が被ったのは何もスキャンダルだけではなかった。明治18年、火災の為、約300戸焼失。この大火により亡くなった松島遊廓の女性を供養する塔が、みなと通りを挟んで松島新地と反対側に位置する竹林寺に存在する。
そして最大の災害が、第二次世界大戦であった。昭和20年(1945)3月13日夜半から14日未明に行われた第1次大阪空襲によって西区のおよそ80%が焼失。松島遊廓は全焼。松島の前に立っていた竹林寺、遊廓に隣接する茨住吉神社も焼失した。松島遊廓にいた女性達もむろん戦災にあい、およそ200人の女性たちが逃げる事も出来ず亡くなった。
戦後そして現代
一時期は日本最大の規模を誇った松島新地も戦争と言う武力の前にはまったくの無力であった。
空襲で全焼した松島遊廓は、戦後は西隣へ移転し、松島新地と名称を変えた。旧松島遊廓のあった場所は、グランドを併設した松島公園として生まれ変わり、遊廓跡しての面影をまったく残してはいない。
で、松島新地に到着。今日は金曜日だからなのか、人通りも多くて女の子も揃っていました。ちょっと前に、松島新地で遊んでいる友人達から「ここ最近の松島新地は平日に行くと閉まっているお店も多く、イイ女の子もいない」と聞いていたのでチョッと不安でしたが、これなら東京からのお客様にも喜んで頂けそうです。
でも、ぐるっと回った正直な感想は、一時期の若い子がどっと増えた時の事を考えると華やかさに欠けますね。ま、私は若い子には興味はないけど、一般の人から見ると寂しさを感じるのかもしれません。
で、東京からのお客様のリクエストは「小柄でカワイイ子」と言うごく標準的なご要望でした(^^;。私の好みとは違いますが頭の中には数人の女の子が候補として浮かびましたが、とにかく一通り見ていただこうと思って、すべてのエリアを見ていただきました。
「目移りしちゃうなぁ~」とお客様もウレシそう(^^;。私も、途中で「オオッ!」と思う女の子を2人ほど見付けました。って、おぃおぃ。
ま、そうは言っても今日はナゼか臨界点には達せず(^^;、お客様に気に入って頂いた女の子のお店にご案内した後は、その辺をブラブラして時間を潰していました。
で、メールの確認をしようと思いましたが、マクドに歩いていくのもジャマクサイし、車を停めている近所でパソコンにPHSをツッ込んでゴソゴソ触っていると、オバちゃんが近寄って来るのが視界に入りました。
なんだ、パソコンが珍しくて話しかけてくるのかなと思っていると、なんとそのオバちゃんは まいちゃんのお店のオバちゃんでした(^^;。う~ん、今日は まいちゃんのお店の前も通ったけど、その時は違うオバちゃんが座っていたので安心していたのですが、悪いことはできませんね。って、別に悪いことはしていないのですが(^^;。
で、まいちゃんの事やチョッとした世間話をしていました。
ホント言うと、1999/09/01(水) 松島新地 まい No.9 で会った後、彼女から電話があったのですよね。その内容はチョッとここには書けませんが(^^;、彼女も私と同じように2人の間を悩んでいるようでした。
そんな電話が数回続いたのですが、彼女は体を悪くしてお店を休んで実家に帰っているし、私も身動きが取れずにいました。その時は「そんな事よりも、とにかく体を早く治さないとダメだよ」と言うことになっていたのですが、ここ最近は彼女からの電話もなく、正直言って彼女の存在を忘れかけていたのですが、今日オバちゃんに会ったおかげで、ふと彼女の事を思い出して胸がキュンとした私でした。
昭和21年(1946)2月20日、GHQの指令で名目上公娼制度は廃止されたが、暫定措置として特殊飲食店として地域を限って売春が許容され、カフェーや待合を有する赤線地域として営業を継続。
その後売春禁止法(昭和31年(1956)5月に成立。昭和33年(1958)施行)の成立により、『料理組合』を結成。後の風営法成立時には料亭、待合として届けを出し、遊郭から料亭と変貌を遂げた。かつては280軒を数えた大遊廓も現代は、その3分1の100件あまりが軒を連ね、大人の遊興地として18歳未満お断りの料亭営業を行なっている。